もっと知りたい

昭和38年3月27日生まれ予定日よりも24日遅い出産という病院の新記録での誕生だったためか、大きくなりすぎて、真っ青な顔をして、産声も上げない状態だったとか
早生まれしかも、3月の27日という4月生まれの同級生とは1年近く違っていたため、とにかく、遅れていた幼稚園時代。担任の先生に、「いるのかいないのかわからない・・」 と言われるほど静かでした。
昭和44年4月富士宮市立黒田小学校入学富士宮市立黒田小学校卒業早生まれの影響か、3年生までは比較的静かな少年だったのが、4年生から急に目立つように・・・・
5年生からは、黒田サッカ-少年団に入り、サッカ-に親しむ日々。6年生では、児童会長・応援団長となる。
昭和50年4月 富士宮市立富士宮第一中学校入学、小学校の時は、一度もリレ-の選手にならなかったのが サッカ-をやっていた影響か?中学に入ると急に足が速くなって、陸上部に入部、陸上部部長としてがんばる日々。走り幅跳びで、市内では2位に。
昭和53年4月 静岡県立富士高等学校入学高校でも陸上部に。中学3年の時のケガ(肉離れ)の影響で 大した活躍もできませんでした。
そんな中、高3の文化祭ではある事件を起こすことに・・・・
昭和56年4月 早稲田大学第一文学部入業
学生時代は、サッカ-同好会と雑誌サ-クルの編集長、バイト(NHK報道局政治部)の日々。友人との熱い議論が懐かしいです。 大学で様々な人間と出会って、交流したことは大きな財産になっています。
昭和60年4月~東京でのサラリ-マン時代東京で様々なタイプの会社にお世話になりました。多くの人と知り合い、多くのことを学んだ20代でした。
平成4年 結婚し、子供も生まれたため帰宮。
平成5年 (社)富士宮青年会議所入会東京から帰宮すると、中学高校時代の同級生が青年会議所の入会の勧誘に・・・
入会後数年はあまり熱心に活動はしていませんでした。
入会してみると、同年代のメンバ-の前向きな姿勢に影響を受け、家業(ほし山温泉)の他に、自分の東京での経験を活かした仕事を・・・ということで不動産鑑定士試験に挑戦しました。背水の陣(年齢も30を超えている上に、二番目の子供も生まれるという)で臨んで何とかクリアしました。
平成10年2月 (有)深澤竜介不動産鑑定士事務所設立・開業富士宮市で唯一人の不動産鑑定士です。
平成12年 (社)富士宮青年会議所第29代理事長理事長時代は多くの皆様のご協力で「富士山ふるさとカルタ」「門前まち青年会議所連盟」設立。
「湧水ウォークにしふじのみや」「花鳥居とせせらぎ参道」「さんかく広場」を初めとする多くの事業を行うことができました。
現在 (有)深澤竜介不動産鑑定士事務所 代表取締役